DATE : 2007/10/29 (Mon)
まず産経新聞:判決要旨はこちらをご覧ください。
以下グレー字は判決要旨
弁護側証人は、本件犯行時間とされる
午後10時8分ごろから午後10時10分ごろまでの間、被告人の様子を見ていたが、
痴漢行為はしていなかったと供述し、
被告人も、本件当時、飲酒による酩酊のため眠ったような状態であったから記憶のない部分もあるが、
痴漢行為は絶対にしていないと述べるところ、その弁護側証人や被告人自身でさえ、
弁護人の主張する別の真犯人の存在は、供述していない。
その他、関係証拠上、真犯人の存在は全くうかがわれず、
弁護人が独自の推論に基づいて可能性を指摘するものに過ぎず、
前記の各証拠に基づく認定事実を全く揺るがすものではない。
この点に関する弁護人の主張は採用できない。
痴漢容疑で自分は無実なのに容疑者にされてしまったとき、
裁判で何と主張するでしょうか。
自分がやってないことは当然主張します。
被害者と言われる人が嘘をついている、または痴漢行為自体が無かったという事を
被告が証明することは非常に難しいでしょう。
植草さんの裁判では、自分がやったのではない事は植草さんにしてみれば明らかな事実。
自分はやっておらず、被害者は触られたと言っているのであれば、それは別人が犯人だったのでしょう
という流れでした。
可能性です。
その可能性を100%無いと言うにははっきりした根拠が必要なのではないでしょうか。
裁判に出廷した人だけが見ていないから、そういう別人はいないと結論するなんて変です。
誰かが見ていたことでしか証拠にならないのなら、
逆に弁護側目撃者が植草さんがやっていないのを見てたのはなぜ証拠にならないのでしょうか。
それと、mojoさんが検察側目撃者と被害者の距離が77センチというのはおかしいという事で図を作ってくださっているようですが、
検察側目撃者もほとんど車両中央近くにおり、被害者といわれる女性も中央にいて、
その距離77センチだった・・・。
そんな物理的にありえない事を認めるなんて絶対おかしいんです。
こんな証言の矛盾(それも被害者と検察側目撃者での矛盾)を見なかったふりをするなんて
何のために1年もかけて裁判をやってるんだかわからなくないですか?
DATE : 2007/10/28 (Sun)
以下グレー字は判決要旨
被告人が、本件直後、被害者や逮捕者らから犯人扱いされても、痴漢行為を否定するような言動をほとんどとらなかったばかりか、被害者の抗議に対し、手を顔の前に挙げて、頭を下げるなど謝罪するような態度をとったり、駆けつけた警察官に対し、痴漢行為を認めているといえる言動をとっていることは被告人が犯人であることを強く推認させる事情
と書かれています。
植草さんは女性のやや大きめの声がしたとき、もしかしたら痴漢騒ぎかもしれないと思ったそうです。
逮捕者に掴まれた時には
『なんですか、ちょっと待って下さいよ。なにもしてませんよ。』と小さな声ではあったが言ったと証言しています。
まったく植草さんの証言は裁判長には聞いてもらえていません。
否定するような言動は『ほとんど』取らなかったと言われてしまっているので、この言葉を発したのは事実として認められているのかもしれません。
それであればちゃんとその時否定していたということが明らかではないんでしょうか。
そして、植草さんの立場を考えてみてください。
大きな声で自分じゃない自分じゃないと否定するよりも、人前で騒ぎにしたくないという気持ちが勝っても全然おかしくない社会的立場です。
電車を降りて、後に、もし女性と話ができて、自分じゃない事を理解してもらったとしても、車内で大騒ぎになっていたら、それだけでマスコミがまたあることないこと書くのではないですか?
とにかく騒ぎにしたくない・・・という気持ちは私は十分理解できますけどね。
小さな声であってもちゃんとやってない事をその場で言い、騒ぎにしたくない・・・と願った事が
後からやった証拠なんて言われてしまうなんてそんな馬鹿な事はないと思います。
DATE : 2007/10/26 (Fri)
裁判で植草さん・弁護団は、
植草さんは容疑のようなことをしていない。
しかし被害者といわれる女性が痴漢被害に遭ったというのなら、別に真犯人がいたに違いないという事を言っていた。
判決では、検察側目撃者などが真犯人と思われる人物を見ていないことなどから
この話が否定されました。
これは真犯人の否定にはなっていないと思う。
犯人は自分ではないから、女性が被害に遭ったのなら真犯人がいたのだろうという説を、
他の人が見ていないからそんな可能性はないと否定できるだろうか。
真犯人がいたのではないかという可能性を言うには目撃した人が必要なのでしょうか。
目撃した人がいるに越したことはないが、自分ではないことは植草さんには明らかなこと。
だったら他に考えうる可能性として、被害者といわれる女性は被害に遭ってないか、別の人がやったのではという可能性が考えられ、その別人ではないかということを主張したわけで、法廷に出廷した目撃者が見ていないということだけでこのことを否定できるものではないのではないだろうか。
弁護側の主張を否定する根拠に筋が通ってないと思う。
DATE : 2007/10/24 (Wed)
というエントリーが出ています。
判決で書かれたものを基にされたエントリーですが、
ここでも矛盾があるようです。
是非一度訪問してみてください。
私も今から拝見します。
弁論要旨に対する疑問の続きはまた明日以降書かせていただきます。
DATE : 2007/10/23 (Tue)
以下グレー字は判決要旨
植草さんと被害者及び警察官の証言等で全面対立していた部分があった。
車内で2~3回頭を下げ、謝っているように見えたということがひとつ。
駅事務室内で蒲田署の警官とのやりとりで植草さんが女性に不快感を与えるようなことをしたと発言したというのがひとつ。
関連各証拠から、次の事実が認められる。と記し、判決ではそれが事実であったとされていることに憤りを覚えます。
特に、警官の証言した女性に不快感を・・・の部分は全くの無条件で警官の証言を真実とし、植草さんの意見は無視されています。
蒲田警察署地域課地域第1係所属の警察官らが同事務室に来た。被告人は、警察官による聴取において、「あなたは何をしたのですか」との質問に対し、「電車の中で、女性に不快感を与えるようなことをしました」と答え、また、「間違いないのか」との質問に対し、「私がやったことには問違いありません」と答えた。
これはひどい。
植草さんの事件ではないと考えても、これは言った、言わないの水掛け論。
片方は聞いたといい、片方はそんなことは言っていないという。
私が裁判官なら、これをどちらかが正しいと言うことはできない。
判決要旨では
警察官は、駅事務室で被告人を聴取したときのことについて、被告人が、同警察官の「あなたは何をしたのですか」との質問に対し、1度目は答えなかったものの、2度目はしばらく間隔をおいて「電車の中で、女性に不快感を与えるようなことをしました」と下を向いたまま答えた、その後「不快感って、どういうことなんだ」と尋ねたが、被告人は無言だったなどと具体的詳細に述べ、その内容も自然といえ、体験した者でなければ供述できない会話の流れである。
と書かれていますが、特に具体的でもなく、自然な内容とも言えず、体験したものでなくとも同じような事件を何度も扱っている人ならいくらでも作文できる内容ではないだろうか。
これだけの根拠で全くの水掛け論になっている争いを警官の証言が正しいと言えるとは、無茶すぎではないでしょうかね。
DATE : 2007/10/22 (Mon)
以下グレー字は判決要旨
なにより、各自の本件車両内での立ち位置については、それを正確に記憶した上、さらに的確に表現することには限界があると言わざるを得ず、あいまいな点があったり、些細(ささい)なずれが生じてくるのはやむを得ない面がある。目撃者と逮捕者が、公判で供述したのが、それぞれ本件から3カ月余り、半年あまりたった後であり、相当な時聞が経過していたことからすれば、なおさらである。 この点についての弁護人の主張は採用できない。
コメント欄にも書きましたが、判決要旨では、事件から3ヶ月あまり、半年あまり経っているからという理由で検察側証人の曖昧な点を『記憶に曖昧さがあっても仕方がない事』としているが、これはとんでもない。
検察側目撃証人は、まず、9月16日に警察へ出向き、そこでひとつの調書を取るために、6~7時間も警察官と話をしています。
その後、裁判で証言するまでの3ヶ月の間に、検察へは(証人が覚えている限りでは)4回出向き、打ち合わせ及び調書の作成をしています。
3ヶ月間事件をすっかり忘れて過ごした後に裁判で質問されたのではありません。
なので、3ヶ月経って記憶が曖昧になったしまったのではなく、最初から曖昧だったのです。
判決は、検察側に全て同意し、弁護側を切り捨てる形で書かれています。
相当な時間が経過し記憶のズレはやむを得ないと言うなら、
被告側の目撃証人は事件から7ヶ月ほど経ってから植草さんに連絡を入れたのです。
その間、検察側証人のように警察で調書を作ったり、記憶を確認する作業もしていないでしょう。
時間が経ち、記憶が曖昧になることを仕方ないこととするならばそれは被告側の目撃証人にも当てはまることではないでしょうか。
それでも記憶に正直に、証言したのが弁護側証人だったのだと思います。
弁護団と打ち合わせをすればいくらでも辻褄の合う証言は出来たでしょうが、それをせず、
ただ嘘をつかず、記憶のみで有利・不利関係なく見たまま覚えているままを証言したのではないでしょうか。
正確に記憶し、的確に表現することには限界があるとの事ですが、
立証責任がある検察側の出してきた証人にはこの論理を適用し、
無実の証明を強いられないはずの被告側及び被告側の証人に正確な記憶を求め、多少の食い違いを大きなものとして目撃証言をも切り捨てた判決には到底納得できかねます。