DATE : 2007/10/18 (Thu)
まず産経新聞:判決要旨はこちらをご覧ください。
以下判決要旨はグレー字
他方、犯人を被告人と特定する部分について言えば、まず、被害者は、被告人に対して何の利害関係もないことはもとより、これまで、被告人と面識すらなかったのであるから、ことさら被告人を陥れる理由はない。そして、被告人を犯人と特定した経緯の部分は、まず、犯人の手を確認して犯人の位置を特定した上で、振り返って、犯人と対面するというものであって、犯人を識別した経過につき自らの観察と認識を時間的流れの中で具体的詳細に述べていると評価できるし、その供述内容も極めて自然である。
他方、被害者の矯正視力は両目で0・7~0・8と支障なく、被告人が、当時、現に木製の取っ手のついた傘を所持していたこともその信用性を裏付けている。
と書かれているが、
今回の事件に関しては、女性は植草さん以外の誰かに痴漢をされたと推測される被害者であり、植草さんはその犯人と間違えられてしまった無実の人だと私は思っている。
ここからの私の意見は植草さんの事件の被害者と言われる人物に関して言っている事ではないが、
一般論として、被害者といわれる人物が被告と利害関係がないというだけで陥れる理由がないと言い切ってしまうのはいかがなものだろうか。
昨今世間一般で多発している美人局による痴漢事件はもちろん全て何の利害関係もない人からあらぬ罪を吹っ掛けられているのではないだろうか。
この判決の表現は安易な結論付けであると言わざるを得ないと思う。
話を事件に戻して、判決要旨のこの部分だけで考えると、
被害者と言われる女性は
指は5本全部は見えなかったが、手の甲は見えていた気がする。また、袖口は、かすかに見えていた気がする。
見えた左手の手首には、厚みのある茶色の木製のものが掛かっていた。
と供述している。
百歩譲って、
女性は犯人の手を見た・手首あたりに引っ掛けていた木製の何かがあったのを見たとする。
しかしそれだけである。
これでどうして、植草さんだったと断定出来たと判決で結論付ける事ができるのか、理解不能だ。
手首ぎりぎりまでしか見えず、その手の来る方向を確実に推測できるかどうかに関しては甚だ疑問が残る。
そしてその方向は真後ろに立っていなければ置けない位置だったと被害者といわれる女性は供述していますが、植草さんが斜め右後ろの方にいたのだという証言はまったく聞いてもらえないようだ。
植草さんが右斜め後ろにいたことは事件直後の報道でもなぜかそのように詳しく伝えられている。
『右斜め後ろ 植草』で検索してもらえれば逮捕時の報道が見つかると思います。
警察が流した情報を基に記者は書いているはずです。
しかしこの判決では、犯人は真後ろにいた人物でそれは植草さんだとなっている。
最初と話が変わっているのではないか?
常に都合よく変遷する主張を、些細なことではないとする判決は以前にも覚えがある。
宮城県のPJ記者が植草氏のことを書いたライブドアニュースの記事に
>冤罪を叫ぶのなら、裁判で冤罪を立証しなければならない。これは法治社会の基本である。
というくだりが有る。
裁判に出された客観的証拠のみで話を進めたいので謀略か否かに関しては私はここでは書かないことにしているが、
私は、その時々で話を変え、後だしじゃんけんをも、『問題ない。勝ち』とする土俵で今後も闘わなければならない植草さんはかわいそうだと思う。
雨の日など、込んだ電車で隣の人の傘の先が足に当たったりすることが良くありますが、すぐに当たっているのは傘に違いないと感じられて実に不愉快になるものです。(ズボンの上からでも分かるぐらいですから、スカートならなお更かも知れませんね!)
ところで被害者は、加害者が手首に傘を掛けて犯行に及んでいたにも拘らず、最後の最後まで加害者の手首に掛かっていたものが傘だとは分からなかったようですね!
もしかすると犯人は、別にいるのかも知れませんね!
<産経新聞Webニュースが伝える被害者の供述の要旨から引用>
直後に、腰や尻、太ももの左右の両側面を着衣の上から、手のひらで触られた。左右とも同じように、同じ位置を触ってきたので、背後の人が両手で触っているのではないかと思った。そして、すぐに、左側に置かれた手で、左の臀部付近を、最初に手が置かれたところを中心に円を描くように、なで回され始めた。 感触的には、手のひらの指の腹の部分を使ってなで回されている感じで、手首はさほど動かさず手首を支点にするようにして、手先が動いていたという感じだった。その間、約20~30秒間くらいで、右側の手は動かず、最初と同じ揚所を触られたままだった。明らかに意図的な行為で痴漢だと確信したが、怖さや焦り、これからどうしようという気持ちでいっぱいで、体を移動させたり、痴漢をやめさせたりする行為はとれなかった。左側の手の動きが止まると、続いて右側の手で同じように、最初に触られた部分を中心に円を描くようになで回された。それは、左側よりも長く30秒間以上で、その間、左側の手は触れていたが止まっていた。そうして着衣の上から臀部付近をなで回されているときに、助けを求めようと思い、自分のそばにいた男性に2、3回ほど目線を送ったが、助けてもらえず、これからは自分1人でこれに対処しなくてはいけないと思った。
そこで、右の臀部付近がなで回されてるときに、背後の人が犯人であるかどうかを確認しようと、まず、頭を下げて右に向くかたちで、なで回している犯人の右手を確認しようとしたが、自分のかばんが邪魔をしてみることができなかった。次に、自分の左側を確認しようと、できるだけ犯人に気付かれないように、体や腕は動かさないで、首だけ傾けて視線を下に向け、触っている左手を確認した。指は5本全部は見えなかったが、手の甲は見えていた気がする。また、袖口は、かすかに見えていた気がする。その左手が来る方向、角度からして、真後ろに立っていなくては置けない位置だったので、背後の人が犯人に間違いないと確信した。
見えた左手の手首には、厚みのある茶色の木製のものが掛かっていた。そのときははっきりと何かは分からなかったが、今では傘の取っ手だったと思う。
はじめまして。
おっしゃるとおり、男性用の長い傘を手首にかけて女性の腰の辺りに手を持っていけば、傘は外れてしまうでしょうし、邪魔です。
別に両手で触る必要もないわけで、どちらかの手に持ってもう片方の手で触ればいいことです。
片手なら離れた位置から触れるけど、両手だったらかなり近づかざるを得ないですし。
痴漢しようとしたらそんな傍目にわかりやすいことしますかね。
そういえば両手で触ったなんていうのも変ですね。
私は検察側目撃者を疑っていますが、本当に両手で触られていたのでしょうかね?
[ゆうたま]さん、わたくしもその通りだと思いますね。
あとは、現実に傘を手首に掛けて行為に及ぶとどうなるか、傘が落ちないケースがあり得るのか、あるいは、行為に及ぶ上でどのような問題が生じるのかを再現して実証して見ることも重要ですね。
裁判官の心証形成は、経験則に基づいて合理的でなければなりませんから、経験則に基づいては説明できない動かしようのない事実が認定されれば、結論もまた変わり得るものと思われます!
被害者の身長は低そうだし、そうすると長傘だと傘の先が床にあたって傘が手首から外れて落ちたりはしないの?
おっしゃるとおりです。
落ちてしまうと思います。
大体、傘という持ち物があって、わざわざ両手で触ってたというのも、何だか被害者と言われる女性の供述の疑問点のひとつではありますね。
「植草さんを見ました」という弁護側の目撃証言に対して、判決では「信用できない」と断定しています。
対して、検察の主張に沿った証人の「植草教授」に対する認識は、
>知人に「教授じゃないか?」と言われ、そう思った
(=検察側目撃者)
>(刺繍で)ウエクサという名前だと思った(=逮捕者)
> (証言内容は不明) (=被害者)
>免許証を見て、教授だと分かった(=青木巡査)
事件発生当時、検察側の証人や逮捕者は、誰一人、植草さんだと認識していた人はいません。これは(4人とも揃ってという事が)不思議な気がします。
弁護側の主張は「触っていた人」と「拘束された植草さん」が、同一人物では無い可能性が高いという事を主張しているようですが、せめて検察側の目撃者が、間違いなく『植草さんが触っている』のを見たという証明が必要でしょう。
触っていた「おじさん」のメガネも荷物も記憶に無く、移動する動きも合わない。荷物を持って、右肩の下がった態勢でさわるのは不可能。・・・この辺りが、植草さんと断定するには“疑問”なのです。
植草さんを「知らない人たち」の証言で、犯人にされ、
植草さんを「知っている人」の証言は、信用できない。
いかがなものでしょうね???
弁護側証人は植草さんのことを知っており、その上で見ていたというのはとても大きいと思うんですけどね・・・。
この、弁護側証人の証言を否定し去る部分が、特にひどいと思いますね。
実質的に「偽証だ」と言ってるに等しいと思いますが、それにしてはあまりにも簡単すぎる。
騒ぎが起こってすぐに目が覚めたとも限らないし、駅も、目が覚めてすぐに認識したとは限らない。時間の幅が多少あることは考えられます。
事件から約10ヶ月も経って証言しているのですから、いくらか記憶違いもあるでしょう。
しかし、証言をどう読んでも、大枠、この事件を見たという証言だとしか考えられません。同じ日、同じ時間、京急電車内で、植草氏と思われた男性が、二人の男性に取り押さえられて、蒲田駅で降ろされた。これが別事件だと?
裁判官は、被告人有利の証人が証言台に立つことのプレッシャーを過小評価しています。警察・検察に逆らう立場は、非常にこわいものです。強い国家権力から何か嫌がらせを受けるのではないかという危惧もあります。
そんな中、わざわざ名乗り出て、証言してくれたのです。それを、ほんの薄っぺらい根拠で、簡単に否定し去る。じゃあ、あの人が証言したことは何だったと言うのか?というところが、全く示されていません。
実に情けなくなりますね。これが裁判か?と思います。
関わりたくないという気持ちが働くのも充分わかりますが、
一番近くで見ていたと思われる子供づれの女性や、
弁護側目撃証人と言葉を交わした女性がちゃんと弁護側証人はその車両にいたということだけでも証言してもらえるとありがたいと思います。
ゆうたまさんもおっしゃっていますが、私が「判決要旨」を読んで、とても悲しく感じたのは、弁護側の目撃者に対して、まるでウソつき扱いのような記述があった事です。
検察官が論告求刑で「別の事件を見たんじゃないのか」と発言したようですが、彼らも、証人の情報を事前に知っていたのだから、偽証だと決め付けるのなら、最低限その根拠くらいは示すべきでしょう。
検察官の、この発言は(否定する根拠も無く)公判で証言した人に対して、非常に失礼な発言だと思います。
少なくとも弁護側は、根拠を示して矛盾を指摘していますし、検察のように「主張が違うから“ウソ”だろう」的な発言はありません
今回の判決で、この検察官の発言に同調するような「証人の一方的な否定」がされていた点に関しては、とても残念でなりません。
確かにこの判決は、ダブスタが著しいですね。有罪にするためだけに実に都合よく基準をコロコロ変えている印象です。
実はダブスタでもいいんですが、それはどちらかといえば、「被告人寄り」のダブスタでなくてはなりません。
「間違っても、無実の人を有罪にすることがあってはならない」という「無辜の不処罰」の理念からすれば、被告人寄りの基準でなければならないわけです。
ところがこの判決は、それとは逆に、大した理由も無く、検察側の主張をどんどん認め弁護側の主張をどんどん斬りまくるダブスタをとってしまいましたね。
被告人というのは、証拠収集にしろ何にしろ、国家権力(検察)に対して圧倒的に弱い。被告人有利な証人だって、警察・検察に歯向かうと思えばなかなか出て来てくれないし、うっかり警察に行ってしまって握りつぶされている可能性もあります。
被告人は圧倒的弱者であり圧倒的に不利な条件で闘うことになります。だからこそ、国家(検察)のほうが立証しなければならないわけで、事実認定についても「被告人の利益に」という基準があるのです。
そういったことを、今回の三裁判官は完全に忘れてしまったか、元から知らなかった模様です。この裁判官たちに限らず、日本の多くの裁判官も同様なのかもしれませんが。
弁護側目撃者だって一面識もない方で、これだけバッシングされている植草さんがやっていなかったのを見てましたというのはとても勇気が必要だったと思います。
別に他人と思えば、放っておくこともできたわけで・・・。
それをやはり黙っている事はできないと出廷してくださったんですよね。
私はこの証人の方にとても感謝するし、そして植草さんを応援する一人としてこの不当判決でとても申し訳ない気持ちになります。
先ほどの「植草さんが、否定していたような作文」に関して、仮にこのような記事にあるように、植草さんが事件直後否定していたという話が、警察からマスコミに流されたとしたら
・植草さんが、その記事の段階では否定していた
・駅事務所での青木氏の聴取では「認めていた」
この二つが、同時進行していた事になります。
時間の流れからすると、この情報は15日にスポーツ紙の記者の耳に入ったと考えられるので、14日の段階では「覚えていない(身に覚えがない?)」と、報道された後の情報だと考えられます。
つまり、青木巡査はとっくに報告書に「認めた発言」を記入していて、上司も見ているでしょう。なのに「触れるわけがない」という話の情報は、誰が記者に言ったのでしょう?
それとも、逆に調書では「無言のままでした・・・」までで、その下に余白があったところに、後日チョコチョコっと、青木巡査の「認めた発言」が、誰かの手で書き足されたのかなぁ?
どうしても、時間の経過から考えると、矛盾する流れです。
文章そのものはともかくとして、容疑者が「認めているのか? 否認しているのか?」に関しては、記者が勝手に想像で書く事は、100パーセント有り得ないので、この記者が、警察から話を聞いた時に、植草さんが「犯行を否定している」と言われたのは確かでしょう。
記事が警官の嘘のよい証拠になっていると思います。
裁判は出された証拠のみで進行すると思うので記事云々は、裁判には関係ないのかもしれませんが、こうして裁判を見ている多くの人は矛盾することがわかっていると思います。
この事件で、被害者がうそをつく、つまり事件をでっちあげたという可能性を完全に否定することはないと、私は考えています。
もちろんそれを証明することが大変なことはわかりますが、弁護人が裁判でうそをあばいた裁判を知っています。
植草さんにはあきらめてほしくない。無罪を勝ち取るにはそれしかないと考えています。
この一年間の裁判を知り、無実じゃないのかな?冤罪じゃないのかな?と確信まで行かずとも、おぼろげながらも感じている人は多いと思います。
真実は必ず勝利すると信じたいですね。
スポーツ報知の9月16日(事件直後)に
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植草容疑者は当初「右手にはバッグを持っていたし、左手はカサを持っていたので触れるわけがない」と話していたという。しかし女子生徒は、植草容疑者が手首にカサの柄をかけて手のひらで触っていたと証言している。
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つまり、事件直後に、被害者がそう言ったのでしょう。
ところで、彼女は抗議するために振り返って、犯人を見た(見間違えた?)段階でも、植草さんの持ち物(傘・鞄)を見ているでしょう。そして、二人の男に連れて行かれる時にも、後ろでしっかり植草さんの持ち物は見えたと思います。
その後、駅員や警官がやってきて「大事」になった時に、犯人の手を見た、という話の補強として「犯人の手首にカサの柄が見えた」と話したのかもしれません。
(例えば「だって、あの人に間違いないです。カサも見たんですから。」とか、被害者なら普通に言うでしょう。多少オーバーであっても、被害者の言葉としては、そんなに問題ないと思います。)
つまり、被害者が「犯人の手を“見た”」と言った “だけ” では、どの段階で見たのかの証明にはならないのです。
◎裁判官の判断基準として
私は「犯人のカサの柄を見た」に限らず、被害者の『証言そのもの』を、有罪を認めるための「大きな根拠」とするのは、いかがなものかと感じました。あくまで「客観証拠」によるべきで、被害者の言葉はあくまで「参考程度」とするべきだというのが、基本的な考え方です。
「被害者の供述」に対しては、
>正確に状況を観察し認識していたこと、その際の記憶をよく保ち、ありのまま誠実に供述していることを示しているといえる。
とあります。
対して「目撃者(検察側)」の記憶に対しては、
>目撃者は、本件時における被告人の姿形、所持品等について、痴漢行為時とその後について分けて述べているわけでもなく、弁護人がこうした理由で、目撃者が見た人物が痴漢行為時においてのみ被告人ではないと主張するのは強弁といわざるをえない。
かなり苦しい【記憶力】に対しての「ダブルスタンダード」です。
被害者の「カサ証言」には「よく覚えているから」と、その記憶の有用性を認め、対して目撃者の曖昧な記憶には「痴漢行為時とその後について分けて述べているわけでもなく」という、何か “不思議な言い回し” で、目撃証言の荷物やメガネの「記憶が曖昧な点」をフォローしています。(まるで「覚えてなくても仕方ない」と言わんばかり)
こういう場合、被害者の記憶の正確さを根拠とするなら、同じモノサシで目撃者の記憶に対しても当てはめる事が「合理的な判断」だと思います。
被害者は事件直後に証言し、目撃者は「3日後」に名乗り出ています。(その後何度も検察官と打ち合わせている)
そういえば、公判での証言は、目撃者の方が先でしたね。今回の記憶力の基準では、むしろ目撃者の方が優先されるのでは?
ところで、冒頭引用のスポーツ報知の記事では、妙に具体的に「触れるわけがない」という、やり取りが「作文されて」発表されていたのですね。
検察側の主張でも出てこないような、植草さんが否定していたような話を作っているのは、一体誰でしょうね?・・・「傘」や「鞄」の事を知っている人でしょうが(笑)
判決に納得できないのはそういう都合のよいところがあるからです。